廃業寸前の町工場から全国80店舗・売上400億円超へ
〜石鹸を信じて下請け脱却に挑んだ男の物語〜
大手広告代理店・博報堂。そして総合商社・三菱商事。
誰もが羨むキャリアを歩んでいた一人の青年のもとに、ある日、実家から一本の連絡が入る。
「家業を畳むつもりだ。」
実家は石鹸づくりを生業とする小さな町工場だった。廃業寸前の会社を救うため、安定したキャリアを捨てて家業へ飛び込む。
そして下請け企業から自社ブランド企業への大転換を実現し、日本を代表するナチュラルコスメメーカーへと成長させた。
松山油脂株式会社 代表取締役社長 松山剛己さんの軌跡。
※本記事は公開情報をもとに構成しています。

ストーリー
松山剛己さんは慶應義塾大学在学中、雑誌『ポパイ』の表紙を飾るなど華やかな学生時代を過ごした。卒業後は博報堂へ入社。さらに4年後には三菱商事へ転職する。
しかし、商社の世界は甘くなかった。博報堂で培った感性や行動力は通用せず、先輩からは「お前は1円も儲けてない」と厳しい言葉を投げかけられる日々だった。
そんなある日、実家から突然連絡が入る。「家業を畳むつもりだ」実家は石鹸製造を行う小さな町工場だった。
大手化粧品メーカーの下請けとして事業を続けてきたが、生産拠点の海外移転によって受注は激減。会社は廃業寸前まで追い込まれていた。
正月に帰省した松山さんは父に伝える。
「家業に戻ってやってもいい」しかし返ってきたのは予想外の言葉だった。「町工場を舐めるな」「そんな甘い気持ちなら戻ってくるな」4代目社長だった父は本気だった。
父は続けて言った。「一年よく考えろ」「それでも気持ちが変わらなければ入れてやる」松山さんは悩み抜いた。安定した大企業でのキャリア。
廃業寸前の町工場。どちらを選ぶべきか。
そして一年後、答えは変わらなかった。「それでもやりたい」30歳で家業へ入社することを決意した。
入社後の一年間は現場での修業だった。毎日釜場に入り、ひたすら石鹸をつくる。油の臭い。高温多湿の作業場。夏は暑さで食事も喉を通らない。
しかし、知識と経験が身につくにつれて考えが変わっていく。職人たちの技術は本物だった。品質にも自信があった。
「この価値をきちんと伝えれば必ず勝負できる」石鹸づくりの面白さと可能性に魅了されていった。

当時の売上高は約4億円。会社は縮小の一途をたどっていた。
このまま下請けを続けても未来はない。そう考えた松山さんは、自社ブランドの立ち上げを決意する。これまで培ってきた石鹸づくりの技術を活かし、オリジナル商品の開発に着手。
1995年、ついに第一号商品が完成した。

松山さんは独特の営業方法を選んだ。訪問先はロフト、東急ハンズ、ナチュラルハウス。
しかし本社ではなく店舗へ向かった。Tシャツに短パン姿。時には幼い子どもを連れて店を訪れる。売り場で買い物をしながら、女性販売員へ試供品を手渡した。添えたメモにはこう書いた。「天然の保湿成分が入っているので顔を洗ってもつっぱりません」営業訪問4回目。
ある女性販売員が言った。「すごく良かったのでバイヤーに渡しておきました」数日後、ロフトのバイヤーから電話が入る。
「御社の石鹸が大変気に入りました。ぜひ取引したいです」ついに商品が認められた瞬間だった。

1995年10月。渋谷ロフトに松山油脂の石鹸が並んだ。その後、東急ハンズやナチュラルハウスでも販売が開始される。取引先は一気に拡大。
やがてMマークシリーズやMARKS&WEBを展開する企業へと成長した。現在では全国80店舗以上を展開し、多くの人に愛されるブランドとなっている。
松山さんは当時を振り返り、こう語る。「ツテを使うこともできました。でも評価するのは女性のお客様です。だからまず売り場の女性に気に入ってもらいたかった」お客様目線を貫いた営業が、会社の未来を変えた。

エリートキャリアを捨てて挑戦した
誰もが羨む大企業を離れ、廃業寸前の町工場に飛び込んだ覚悟が胸を打つ。
お客様目線を貫いた
バイヤーではなく売り場の女性販売員に商品を届けた発想が成功を生んだ。
下請けからブランド企業へ変革した
価格競争に巻き込まれる下請けから、自ら価値を生み出すブランド企業へと生まれ変わった。
企業情報
| 企業名 | 松山油脂株式会社 |
| 代表取締役社長 | 松山 剛己 |
| 所在地 | 東京都墨田区東向島4-7-10 |
| 創業 | 1908年 |
| 事業内容 | 石鹸・化粧品・日用品の製造販売 |
| 公式サイト | https://www.matsuyama.co.jp/ |
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出典・参考
- 松山油脂株式会社 公式サイト
- MARKS&WEB 公式サイト
- プレジデントオンライン
- 「理念と経営」サイト


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